小池繁夫というアーティストについて
小池繁夫
1947年新潟県生まれ。下記は2010年に本人がインタビューに応じ、語って頂いた内容のハイライツ。
「僕はごく普通のこどもだったと思っている。 ただ子供時代の写真にはライトプレーンと一緒の写真が多い。 ライトプレーンって、ほらゴム動力で飛ばすやつ。 小学校5年のころからプラモデルを作るようになった。 中学生にはUコンに夢中になって、高校生の時にはR/Cで遊んだ。 その頃、ラジコンってものすごーく高価だったから必死に親に頼んだな。 OSのシングルを買ってもらって。 思い起こせばいつもそばに飛行機があったな。
絵は子供のころから褒めてもらっていたけど、将来絵描きになるなんてぜんぜん思わなかったな。」

㈱ハセガワの1/32 Me262のボックスアートの一部。爆弾を落とすといった控えめのアクションさえ後期の作品には見られない。
「高校の頃、アメリカから色んなイラストががやって来て、すごくかっこ良く感じてね、イラスト描きたいと思ったんだ。 高校卒業して東京のデザインスクールに入った、1965年だったかな。
でも学校にはあまり行かなくなった。プロのイラストレーターがやってるデザイン事務所でアルバイトをやるようになったんだ。アルバイトで入って、卒業後正式に雇われ助手になった。
デザインスクールを卒業して4年後、独立したんだ。フリーになってデザインとイラストの両方やってた。何でも描いたし、仕事はたくさんあったから忙しかった。 昼夜逆転の不健康な生活が半年くらい続いたかな、旅行中に吐血したんだ。旅先で医者に行ったらすぐ戻って入院するように言われた。結核だったんだ。1〜2年くらい療養所に居たよ。なんとか治って療養所を出て、結婚したのが1972年、25歳だった。
最初の飛行機関連の仕事は第一回日本航空宇宙ショーのポスター用イラストだった。 その仕事が何回か続いた後、そのつながりで『翼』という雑誌に数年間ピンナップを描いた。それを見た富士重工がカレンダーの依頼をしてきたんだ。以来40年かな?こんなに続くなんて思っていなかった。」
1970年代のハセガワ製作所1/72プラモデルキットのボックスアートの一部。背景に燃えている敵機を描くなどの「アクション」絵は後期小池氏に画かれていない。70年代後半の作品。
「同じ頃、ハセガワに売り込みに行った。描きためた飛行機のイラストを持ってね。じゃあ描いて下さいって受けたのがF-15のプロトタイプのボックスアート、ウィングがオレンジ色のヤツ、1/72スケールで今は絶版のヤツ。
ハセガワの仕事は飛行機、戦車、艦船、ヨット、依頼されるものは何でも描いた。プラモデルのパッケージだったし、プラモデルは好きだったから楽しかった。ハセガワは内容について特に注文をつけなかったのでかっこうよく見えるように心掛けた。 ただ劇画タッチ、戦争画タッチは嫌いだったし、そうは描けなかった。それがかえって当時は目立って良かったのかも。
富士重工のカレンダーとハセガワのパッケージのイラストをまとめた作品集『フライオーバー』が1991年に出版され、その後『フライングカラーズ』『 フライングカラーズ 2』 『フライングカラーズ 3』と最後に『フライングカラーズ4』が刊行され、そのたびに区切りがついたみたいに見えるけど いつも興味はこれから何を描こうかなって思ってしまう。」
「翼のある風景」という1980年代の日本航空宇宙工業会の季刊誌に掲載されたフォッカーF.32を珍しくカラーインクを使用したイラスト。ほとんどの作品はアクリル画材しか利用していない。
「ろくに営業もせずにこの稼業が続けられたのは運が良かった。本来の意味で僕は画家ではなくイラストレーターだし、アーティストじゃなく職人と呼ばれたいと思っている。 絵を見てくれた人の反応を知りたいと思う。新たな作風にチャレンジしたいし、ずっと飛行機を描き続けるよ。飛んでる飛行機はきれいで描いてて楽しい。
富士重工(スバル)のカレンダーは絵としてもっともっと描き込めるけどスーパーリアリズムになってしまうし、スーパーリアリズムの絵って描いてて面白くないし、眺めてもすぐあきてしまう。飛んでる飛行機が描きたいし、感情移入ができないと描いててもつまんないし、つまんない絵になってしまう。いつも見ている人が長く楽しめる絵にしたいんだ。」